昭和47年12月9日 朝の御理解 ●② 大坪かよこ
御理解第65節
日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というのは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。
教祖様がこのように教えて下さってある、けれども、やはりここのいろんな迷信的なことですわね、日柄方位といったような事柄に、まだ、あの迷いが冷め切れずに、教祖様はそう仰るけれども、やっぱ昔から言うてあることは、やっぱ守らなければといったようなことを平気で言う、お道の信奉者が、沢山あることです。
ね、普請をするのに家相を研究してみたり、ね、例えば、名前をつけるのに生命学のところに尋ねて行ってみたり、ね、結婚をするのに良い日柄を選んでみたり、ね、だから、そういうことではね、おかげは受けられないです。
なぜかて言うと、教祖様を信じていないということですから。
もうこれだけでもおかげを頂けないね。
金光様の御信心はどこまでも、教祖金光大神が教えられたことを、信じて疑わず、教祖様のみ教えに、従順にしかも、それを忠実に守るということにあるのですから。
ね、いわゆる教祖生神金光大神に、帰依をするというのが、私は金光様の御信心に、の信者としてのこれは、当然のことであると思うのです。
ね、それに例えば教祖様が教えてくださっておることをです、いうなら、いつもが天赦日じゃというような心持、いつもが赦された、ね、自由自在な、天地の親神様の懐の中にすべてがあるのだ、懐の中に抱きかかえられておるんだと、いうような、いわゆる、日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思えというような大らかな心持で、生活をさせて頂けれるということ。
ね、そういう私は信心を、あの、身に付けなきゃ、ところがなかなか話を聞き、たとえば理路整然とです、こういうようなことは迷信だということを聞きましてもね、それが成る程と思うても、実際に心にかかるです、ね。
ね、例えば日柄方位とか、例えば家相を見るとかといったようなことでもです、例えばそれが日本人のうえだけにだけあるわけはないじゃないですかと、アメリカの人はそんなことは言いませんよ、ね、シナの人なんかもそうです。
というふうに説明を受けますとですね、成る程と合点がいくのですけども、やはりなら自分が家を建てようということになると、家相を見てもらう。
なら、いよいよ自分の娘をやろうか、嫁ごを貰おうかということになると、やはり日柄方位が気になる。
ね、もう何のためにお道の信心させて頂いておるか分からないような人達が沢山あると思うんです。
合楽にはもう段々おかげを頂いておられるのですね、皆さん、どうでしょうか。
ね、親先生はあげんいいなさるばってんですのや、やっぱ、その見るところに見てもろとかんとやっぱ後がいかん、というような人達が、ま、沢山ある。
というのは、それだけまだ、教祖様を信じていないということになる。親先生を信じていないということになる。
ね、親鸞上人様が仏教を志されて、ほんとに極楽往生の道を辿りたいと、ま、一生懸命の信心修行をされた。
何十年間という間、どうにも解せない、どうにも分からない、そこで、叡山から六角堂までの何里かの道を百日、毎日毎日通われて、どうぞ自分の心を救うてくださる、助けてくださる良い師匠にめぐり合わせてくださいというて、あの、お願いを、いわゆる祈願をこめて、百日の参篭があります。
そしてその百日満願の日に昔の、いわゆる信心友達であるお坊さんにお会いされます。
そしてその当時、よしみつという所におられる法然上人のことを聞くのです。
沢山のそれまでに師匠に付かれた。もういろいろ勉強された。いうならば、極楽往生のでける仏教によって助かることのためにです、ね、そして法然上人のお話を聞かれて、もう今までの信心のすべてが覆った。
もうこの上人様が仰ることならばです、ね、例えそれが師匠法然の言うことが地獄道につながっておってもいとわんというところまでいかれたときに、初めて宗教的助かりを得られたと言われておりますですね。
私はね、そんなに難しいことは言わなくてもです、ね、あのここんところが分からしてもらわなければ、本当の金光教の信心はでけんとおもうです。
そんな難しいことじゃないですよ、例えば日柄方位のことなんか、ね、けれども教祖様を、ね、信じておる、親先生が言われるとおりのことをして、よしそれがなら、はじめから信心させていただいてるなら、極楽的なおかげを頂きたい、こういうおかげも頂きたいと思うんですけれどもです、ね、例え師匠法然の言うことが、よし地獄道につながっておっても、さらさらいとわないという、いわばほれ込みようと申しましょう。
ね、そこから親鸞の助かりがあり、親鸞宗を宗教される、いわゆる信仰される人達が、沢山助かることになったんです。
ね、そしていわゆる自由無碍、妻帯もよし、ね、生臭けを食べてもよし、といったようなその、広い信心が生まれたようにです、教祖金光大神の、例えばこの六十五節のみ教えなんかというものは、もう、もうそれこそです、ね、もうほんとに世界無比といっていいでしょうね。
これは日柄とか方位とかいうことだけじゃないです、ね、教祖金光大神の言われることをそのまま頂かせてもらえれるということ、そのことに忠実にならせて頂けれるということ、ね、教祖様を信じなければできることじゃありません。
ね、最近合楽の信心のいわば内容として、昨日、私そのこといただいておって、皆さんに聞いてもらわなかったんですけれども、●② ご祈念中に、頭の長い福禄寿というか、福禄寿ですかね、頭の長い、七福神の中にあるでしょう。福禄寿を頂いた。
てこれが、ここ何十年間の合楽の信心であったと、ね、合楽の信心は非常に深い、広い言うなら教学的である。
お話を頂かしてもろうて、始めて、いや、教祖のみ教えはそのように深いものであったかと、びっくりするぐらいに、お互いはもうそれを頂くことが楽しみだ、皆さんもそうでしょう。合楽でご理解を頂くということはそのことでしたよね。
二十数年間、もうおなじみ教えでも、もうおんなじように説かれたことがなかった。
もうそれこそ一つのみ教えが、ね、何十回説いても、その深さ広さに触れていけるほどしのものをお互いが勉強した。
だからそれほどしの事が分かったのであるから、分かったほどしのおかげをいただかなければならない。
ね、そこでこの五年祭という記念祭を境に、内容が貧しかったことに、私自身が悟らしてもろうた。だからこのことは、例えば合楽の信心はむしろなんか私が、一つのなんか霊能者的なふうに見られておった。なんか拝み信心のように言われてきておった。
それがたまたま今度の、和賀心時代を創るというご本がでけた。
それ以前に青年教師会で、あのご本がお話をしたこと、そのまま活字になった。
そして今度の和賀心時代を創るというご本が、学院生の中に配られることになって、学院の先生、講師方が、ね、合楽の信心をいわば見直されたのであろう、なぜかというと、今まではどうもおかしいという見方をされておったのが、はっきりこっち感じられるぐらいであった。
それが、それがなら、教祖伝の中に、または金光大神覚の中に、ね、いわゆるこの、合楽の信心というものが取り上げられて、あのご本が、いわゆる教科書代わりに使われるくらいなところまで認められてきたわけ、ね、ですから、素晴らしい、なら今度は合楽の教会に来て見たら、おかげもまた素晴らしいということにならなければいけないでしょう。はあ、来てみると内容がない、ただ頭でたとえば分からせて、頭でっかち的なものではないです、どこまでも合楽の場合は、必ずおかげは、その、そのことによって徳を受け、またはかげを受けえてもきたけれども、なら、もっともっというならば、教祖の神様の言われることを実証できるほどしのおかげというものをです、ね、合楽で頂かなければならない、それにはどういう内容をもってするかというところからです、ね、私の泉南行きということになり、阿倍野の教会との言うなら係わり合いというものがでけてきた。
そしてあのそれこそすさまじいまでのごひれいです。
ね、朝のお参りが、千人、日に二千名づつのお参りがあるというんです。
どううところにそういう一つの、秘められたものがあるか、どこが良いならば、そのように人が助かるかと、ね、もちろん、阿倍野の先生のとにかく、あの有り難し、勿体なしの権化のような、あの有り難いのかたまりのようなお方、もう七十八才になられるご婦人の方ですけれども、もうどこを付いても、有り難いしか飛び出してこんだろうと思うほどしに感じられる、その有り難いが、あれだけのごひれいを築かれた事になりましょうけれども、そこでおかげを受けておる信心者たちの信心の態度というものがです、いうならば、今日のご理解で言うならば、もう親先生が仰るから、ともうそれに信じ、頼り切ってるということです。
日柄も言わん、方位も言わんで済む、もういうならば、信じきっておるという、だから一生懸命お参りがでける、一生懸命信心がでける、それでもおかげいただかん、そんなら、それが主人であるならば、奥さんももういっちょ加勢してもらいなさい、子供さんにも加勢して貰いなさい、一家を勢を揃えて信心しなさい、という、言われるともう、それをそのまま信じて、実行する。
お日参りをしなさい、お日参りちゃ、必ずいっぺんで、じゃ無くてもいいよ、朝昼晩参ってもいいよと言われ、本気で朝昼晩参るという信者がでけてきた。
・・?はラジオ的なお徳であったのが、大きなテレビが座るほどしの、おかげの頂けれる、ま、教会として神様が認めて下さろうとしておる。まだ据付はあっとらんけれども、据付がもうできるばっかりになっておるというような、お知らせを頂いて、三四日前ですね、三日になりますか、皆さんにお話を聞いてもろうた。そのあくる日もまた、同じあの七十八節から頂きましたですね。
神の機感にかのうた氏子というあれです。
ね、神の大恩を知れば、ね、子孫も続き、家繁盛、いわゆる子孫繁盛、家繁盛のおかげが受けられるというあのみ教えなんです。
ね、そこで神の機感に叶うということについてもいろいろいただいたんですけれどもです、ね、どうでも願わねばならんこととして、私が五項目を皆さんに聞いて頂いた。
ね、もう皆さん暗記しとられますでしょう。その五項目は。
夕べ青年会でございましてから、久しぶりで、あの、私是非、あの出てくれというから、昨日はでらしてもらいました。昨日は大変人数も多かった。
それに熊本から、あの上野さん兄弟も一緒にあの、参加しましてから、ほんとに有り難い、だから、こりゃあらゆる会合、みんなの会合にどうでも親先生、この話をみんなして下さいというて、いう話があったけども、いやそれは私がおし付けてお話をしたのでは、いけないから、例えば今晩、青年会がどうでもと言われるような姿勢を作らなければ、お話をしただけでは詰まらんから、といったことでございましたけれども、ね、その話を聞いた後に、一人一人体験を発表してもらった。光昭が発表してましたがこういう事を言うてます。
ほんとに信心、信心と難しいようにおもうておったが、このように手近に、みやすうでける信心がここにあったという発見をした。そのみ教えを頂いて発見した。
ときの喜びというものは、もう大変なものであったと言うとります。
もう金光様のご信心とはこんなにも見やすいものであったんだと、その為にです、んなら、体の丈夫を願えと、これはもう、あげて、いうならば、家族を揚げて、もう子供も年よりも、このことだけは、すがってくれ、願ってくれと頼んででも願って貰わなければならない。
その項目の第一に挙げられておる、どうぞね、体の丈夫を、どうぞ体の丈夫を家族中の者がいや、今体の丈夫のおかげを頂いておるなら、いよいよますます、体の丈夫を願わしてもらうという、その代わりに、ね、大酒大食、いうならば、不摂生なことは致しませんという信心がでける。ということなんです。
ね、家庭平和のおかげを頂くということ、これはまあ、のや、若先生というてから壇上か若先生に話しかけてからでしたけども、兄弟仲の良い、もうこげん有り難いことはないということを、話しとります。
親子はもちろんのこと、家族中がほんとに教会は、がその一つの手本にならなければならない、手本にしても良いほどしのものを、私どんが頂いておる、ね、そしてそのみ教えの中にです、ね、家庭の円満を願わして頂く、そのおかげを頂かせていただくために、決して人を責めません、という修行をさして頂くということ、ね、それは実際取り組んでみると難しいけれども、ほんとに具体的に、そういう信心をこのように見やすうにさせて頂けれるということをです、このたび、発見したというとります。
もちろん家繁盛、子孫繁盛を願うからにはです、もう無駄使いは致しません、お互いに頂いておる仕事に忠実になります、もう今までは、四回のご祈念がありよったけれども、朝のご祈念に出てくるとがやっとかっとであったが、ね、そりゃなるほど、なんか忙しい思いしたり、一服しておるときに、いわゆる奉仕着を付け出て来るだけでもです、それはせからしい思いがする。
けれどもお広前に座ってみると、はあ、良かったと思う、というて話たら、そうだと若先生も、やっぱ言うておる。
若先生も出てこなかった、もう朝のご祈念をするだけじゃった。それがなら朝、昼、夜のご祈念に奉仕着を付けて出て来るということがです、そして光昭が言うております。
お百姓の息子さんはやはりお百姓をしておる、商売人の息子は、番頭代わりに一生懸命働いておるのですから、教会の師弟としてもうこのくらいなことは、当たり前ということが分かってきたちゅうてます。
しかもねこういう身近にです、身近に教祖のみ教えを行じられる道がそこにあったという発見がねなんというてもあり難いというて、私はあんまり突然に、光昭あんたも話しなさいと言うたから、お話ができないだろうとも思うていたけれども、自分が現在今、ここ二、三日修行、修行というほどでもない、これをもう当たり前のこととして出けてきたことがね、有り難いと言ってます。
だから皆さんもそういうことに段々なっていかれておるだろうと思うんです。
ね、しかもその家繁盛、子孫繁盛も、または健康のおかげも、家庭円満であるということもです、ね、そういう家繁盛のいうなら経済的にも恵まれ、健康でもあり、家庭も円満で無からなければ、神様の御用にいわば奉仕することができない。
ね、例えば家繁盛、子孫繁盛、いうなら商売人なら商売繁盛を願う、願うからにはです、ね、仕事に忠実になります、ということと、いわば、始末倹約、いうならbなお粗末後無礼のないように致しますということ。これはどうでも店繁盛を願うなら、家繁盛を願うならばです、家繁盛を願いながらです、無駄使いはする、家繁盛を願いながらです、仕事は怠ける、これでおかげの頂ける筈はないということが分かったということなんです。
ね、だから、身を削って奉仕するということになったわけです。
今までタバコを十本のみよったなら、五本にする、これはもう身を削って、そしてそれを奉仕すとこういうんです。
そういう信心がです、このように身近にあったということ、それは私自身がそれを感じとるくらいですから、けれどもそれを聞かせて頂いたときからです、ね、信心、その信心のことが今までの合楽の信心の内容になる。
昨日私が頂きました、頭の長い福禄寿から、ね、おなかの大きいね、布袋和尚、大きな袋を持ってね、布袋和尚というのは、いわゆる身をもって分かる、ね、頭で分かるのじゃなくもう体ごと分かる、心と体で分かる、ね、そこにああいう豊かな大きなおかげを頂く。ね、大黒さま的な、いうならば、おかげを頂く。
昨日先生、ほんとおかげを頂きましたと言うて、あの桜井先生が言うておられます。
ある所に行ったら、そりゃもう今まで見たことないごたあるめずらしい大黒様を見た。
もう大黒様と言うとぴんとくるわけですね。
ここでは私のことを大黒様、大黒様というような表現をして下さるから、もう大黒様そこにあったということだけでも、はあ、今日はごしんごの中にあったなとこう思うた。
ところがなんとその大黒様が打ちの小槌を持ってござらん。
大きな袋ををかついでござる。そして片一方の手はこうやって開いてござった。
こりが桜井先生、今のあなた方の、?なんに握るもんがない。開いてござる。
けれどもここに何かがあったら、いつでもこう、つかめれる姿勢にあるということである。
この大黒様は打ち出の小槌を持ってなかばいのと思うたところが、下に大きな打ち出の小槌があって、その打ち出の小槌は踏んづけてから、立ってござる大黒様だった。
そういう大黒様を拝んだ、と言うてから言うておられましたけれどもね。
私どもがほんとに、それこそ必要なものが必要に応じて、これは、お金とか物だけではありません。もう人間の幸せというものはです、そこに素晴らしいタイミングの中に、ね、それこそ、願ったり叶ったりというようなおかげを頂いていくというところの生活にならなければならん、そういうおかげを頂けれるのが、教祖金光大神の道なんです。
ね、だからそれをなら、私が、実際具体的に現しとるのが、私なんです。
私も二十年前までは、それこそ、ね、十円の金にも不自由した。食べるに食もなかった。着るのに着物もなかった。というような中からです、なら皆さんに長年聞いて頂いた、ね、言うならば成り行きを大事にするとか、最近では、すべてのことを御事柄として受けていくとかというその内容として、今日のことが願われ、今日のことが、おかげの上に現していかなければならないというときに現在合楽の皆さんの場合あるわけです。
だからそれを如実にです、現していくということは、ふんならまだ、今までの願いが足りなかったと、しかも、勢を揃えて、家族中がそのことを願っていなかったということがあの、五項目なんです。
ね、そういうおかげを受けなければです、なら和賀心時代を創るという、いかに運動員にならして下さいというても、私を見てください、というのもがなくして、和賀心時代を広めていくことができませんよ。
私を見てください、健康もこんなに素晴らしい、家庭がこんなに円満、しかも家繁盛子孫繁盛のおかげを辿っとります、というてその、和賀心の信心を人に勧めることもでけるのですから、どうでも、頂かなければならん、ためには一人ではいけん、ね、夫婦が勢を揃えて、親子が、家族中の者が、子供でもわけが分からんなりんでも、あの五項目だけは暗唱させてもろうて、ご祈念のたんびんに、そのことを祈り願わなければならない。
祈るからには、それに対するところの引き当てであるところの修行もさせてもらわなければならなんと言うことになるのです。
ね、それは例えば、ね、親先生が言われることを信ずるからそれが行じられるのです。
先生はあげん言いよんなさるばってんから、一家中で参ったちゃ、とか、ね、信ずるから、いうならば、なら現在の合楽の傾向と申しますかね、そういう傾向の中にある自分達もそれに傾向していこうとする、それに傾いていくという意味ですよ、傾向とはね。
それにいわば、同調していこうという姿勢というものが、ね、ないわけです。
私はあの、信心にはどうでも、そういうね、純なものがなからなければいけないとおもうんです。
少し信心が高尚になってまいりますとね、あの理屈を言うて、あの、それを素直に受け入れられなくなってくるようですね。
これは実に残念なことなんです。
ね、ですから、そういう純なもの、そりゃなるほど、生まれつき純な人がありますけれどね、それでは本当のことじゃない、昨日の青年会に対する御理解でしたけれども、例えば純粋というものはね、純粋なというものは、あのたとえばお水でいうならば、ここのお水なんかは、純粋なお水だとこう思うです。けれどもこれをほんとに分析してみますとですね、いろんな、いわば有機物、いろんな物が入っておって、本当の飲料水には適応しない、ほんとにいけない、だからそういう自分な清らかでだ、うち、自分の水は美味しいんだというふうな頂かただけでです、ね、だからそれが一つも、ほんとに薬に使われるということになってこないのです。
だからほんとの純粋というのは、もちろんこれが濁っておったり、金気であったりしてはいけませんよね。
けどもうちのお水なんかは、そりゃもうほんとに御神水と思われるくらいに有り難く、美味しいです。けどもこれを厳密に調査してみるとです、あれもやっぱろ過をしなければいけないわけなんです。
ね、ですから、あのお医者さんが使うところの蒸留水です、これがほんとの純粋な水なんです。
信心とはね、そういう純粋なもの、いうなら人間、人間から人間を一つ失格していって、昨日のご理解じゃないけれどもね、神格化していこうというのがお道の信心なんですから、ね、自分のなら、純粋なそのお水を、もういっぺんろ過をしてみるとか、またはそれを蒸留水、蒸留にかけるとかとして、行かなければほんとの純粋な物になってまいりません。その純なものんなって参りますとです、例えば親先生が言われることを、そのままそうともう帰ってから早速家内相談した。
昨日、一昨日が総代会でしたが、永瀬さんが、もうあの今日のご理解を頂きまして、もう帰りましたらまだ、息子も娘もやすんどりました。けども起こせと言うて起こさせました。
そしてみんな、ご理解を頂いたその朝ですよ、そして、あんただ今日の親先生のご理解を聞いてくれというて、あんたたちもこのことを祈ってくれ、願ってくれ、歩調を合わせてから、勢を揃えてからこのことを願わにゃならんぞ、と言うて話しましたということを総代会に発表しておられました。
そういうね、私は純粋さというものが必要だと思うんです。
信心にはね、でなかったらその信じられない、親先生がいうことを信じられない、いうならば、今日の六十五節がそうです。
ね、日柄方位はいらんとか、ね、例えば使い勝手のよいのが良い家相じゃと、例えば言われてもです、昔から言うちゃるからというのはもう、教祖様を信じていないから、いわば、今日は天赦日というような、もう神様に赦された一日であるといったような、ね、和らいだ、ね、大らかな日常生活がでけんのです。
ね、ですから、親先生を信じないから、私の言う事にです、もうはっと、そのことに体制を整えようとしないのです。
ね、これは昨日お届けを聞かせて頂いたことですけれども、ほんとに素晴らしいと私が思うたことは、その、五項目のうち、その人は医者にも見せられないほどしの、病気なんです。医者にも見せられんごた恥ずかしい病気なんですいうならば、それで神様に一生懸命お願いなさっとられるけれど、ひとっつも良くならんとです。
毎日そのために難渋しとられます。
ところがね、あの体の丈夫を願えということの第一項目を頂いてですね、そしてあの今日から、いうなら、あの私がお夜食を致しませんと決めたように、親先生もああおっしゃとるけん、自分の例えば、不摂生なことはしません、こういう食べ物は、を例えば何じゃっ、間食的なことはもう絶対致しません、というて体の丈夫を願う、そのあくる日からすきっとおかげ頂いてあるという事実があるです。昨日お届けがありました。
だから一日の間は、まだどうかと思ったけれども、昨日、二日間続く、昨日の言葉で、今日の言葉で昨日と一昨日ですか、あのご理解を頂いた日からおかげを頂いておる。
私はそれを頂いてから、なるほど、こりゃ改まるということはもう、おかげに直結することだと思うですね。改まるということはですね、もう医者にも見せられんぐらいな、いうならば病気なんですよ。
恥ずかしくって、それがね、あくる日あんまりすっきとおかげを頂いたけんで、こりゃもうちょっと、まあ感じなかったけれどね、二日間続いたところからですね、もうほんとに親先生、改まるということば、決心したところからおかげを受けておるということを聞かせてもろうて、なるほど、改まりにおかげは直結しておるな、心磨きにはもうお徳が直結するなということを、私改めて昨日、感じさせてもらいました。
人間が、日々の改まりが第一と、信心は本心の玉を磨くものぞやと仰るのですから、ね、そのことに本気で取り組ませていただく。
今日私は六十五節をね、今日聞いて頂いたような意味合いにおいて聞いて頂いた。
これは教祖様をほんとに信ずる、教祖のこと、教祖に帰依する、たとえばふんなら、日柄もいわじゃった、家相も見らずに家を建てた、そんために家事になっても、なら結婚も日柄を見らずにしたけんでこういう結果になった、そげなことは問題じゃない。
教祖が仰ることが、よし地獄道につながっておっても、さらさらいとわんという、勇猛心を持ってです、教祖を信じて疑わないという信心のことを、今日はこの六十五節から聞いて頂いた。
ね、そして、日日言われておるところの、あの五項目に取り組むということでもです、親先生が言うておることを、信じて疑わないというところからです、ね、勢を揃えた信心、しかも勢を揃えた、これはもう、内容がなかっても子供んでも、暗記させて神様を拝むときにゃ、このことば言わんならんばい、このことば祈らんなんばいということをです、教えさせていただけるような、私は純粋さというものがです、いるんだと思うのです。
ね、とにかく教祖様を信じなければ、この六十五節は守られません。
親先生がいうことを信じなければです、ね、合楽のこれが内容だと現在言われておるところの内容を詰めて、そして本当なおかげにしていくということはできんと思うですね。 どうぞ。